生命保険会社の営業職員にとって、スマートフォン代や資料のコピー代など、日々の営業活動にはさまざまな費用がかかります。
では、これらの費用を会社と労働者のどちらが負担するのか――そして賃金から控除することは認められるのか。
この点が正面から争われたのが今回の裁判例です。
大阪高裁(令和6年5月16日判決)は、「会社と営業職員の間で経費を負担する合意がある限り、賃金控除は原則として適法」と判断しました。ただし、労働者が控除に異議を述べた以降の分については合意の効力を否定し、未払賃金の支払いを認めました。
経費負担と賃金控除の「合意」がどこまで有効とされるのかを示した、注目すべき判決です。
1 事件の概要
生命保険会社Yの営業職員であるXは、
- 会社が賃金から業務上の経費を控除したことは違法
- 控除した経費分の未払賃金を支払うべき
- 携帯電話の使用料も会社が負担すべき
と主張し、賃金および損害賠償を請求しました。
争点は主に次のとおりです。
① 業務上の経費を労働者が負担する合意は存在するか、その合意は有効か
② その経費を賃金から控除することについての合意は有効か
③ 携帯電話使用料について費用償還請求権があるか
とくに①②の「合意の内容と効力」が中心的な争点となりました。
2 当事者の主張
■ X(営業職員)の主張
- 営業活動費を労働者が負担するとの合意はそもそも存在しない
- 労働組合と会社の間の協定(賃金控除協定)も根拠にはならない
- 業務上必要な経費を労働者に負担させるのは賃金全額払の原則(労基法24条)に反し無効
- 個別に同意した事実もない
■ Y(会社)の主張
- 雇用契約において経費は営業職員自身が負担すると定めている
- 組合との協定にもその旨が明記されている
- 経費は職員が個別に注文するもので、負担内容は事前に認識可能
- 控除は簡便で労働者にもメリットがあるため合理性がある
3 大阪高裁の判断――合意は原則有効、ただし“異議後”は無効
高裁は、経費負担と賃金控除を分けて検討し、次のように判断しました。
(1)経費負担の包括的合意は成立している
高裁は、Xと会社の間には
「営業活動に必要な一連の費用は営業職員が負担する」
という包括的な合意が存在すると認定しました。
また、Xが主張した
- 賃金全額払原則違反
- 公序良俗違反
- 憲法・労基法違反
といった主張もいずれも退け、経費負担合意は私的自治の範囲内で有効としました。
(2)賃金控除の合意も、自由意思に基づく限り有効
賃金控除は労基法24条の例外(相殺合意・労使協定)として厳しく判断されます。
高裁は、
- 経費が個別の注文により発生し予測可能
- 控除額は給与の約5%以内
- 控除方式は労働者にとっても簡便
といった事情から、
「労働者の自由な意思に基づく合意があると認められる合理的理由がある」
として、控除の合意も有効と判断しました。
さらに、控除がXに不利益として過大ともいえないことから、労基法24条ただし書の適用も認められました。
(3)ただし、労働者が“控除に反対した後”は効力が及ばない
重要なポイントです。
Xが「控除には反対だ」と明確に意思表示した以降は、
賃金控除に関する合意の効力は及ばない
と高裁は判断しました。
そのため、反対後の控除分については未払賃金として支払いを命じています。
4 第1審との違い
京都地裁(第1審)も一部の未払賃金を認めましたが、次の点で高裁判決と異なります。
- 第1審は包括的な経費負担合意の存在を否定 → 高裁は包括的合意を肯定
- 第1審はコピー用トナー代について個別合意を否定 → 高裁は否定しない
- いずれも「労働者の異議後の控除は無効」という点は共通
5 本判決の意義――“業務上経費の負担”という未開の問題に判断を示す
賃金控除に関しては最高裁判例が存在しますが、
「そもそも業務上の経費を労働者に負担させる合意が有効か」
という論点についての裁判例は非常に少ないのが現状です。
本判決は、
- 経費負担の合意の有効性
- 賃金控除の合意が成立するための条件
- 労働者の異議が生じた後の効力の限界
を具体的に示した点で、実務上大きな意味を持つと言えます。
営業職員の働き方が多様化する中で、企業も労働者も「どこまでが会社負担で、どこからが労働者負担なのか」を明確にする必要があり、本件はその判断の指針となる事例です。
【監修】
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